代表者プロフィール


【代表者】いうちはるよ(Haruyo  Iuchi)

    1978年2月1日生まれ


【出身地】大阪府枚方市出身



【好きなことば】 心技体 眞善美 知恩報恩



【署名活動歴】


夜間高校廃止反体署名

難病に関する要望署名

障がいに関する要望署名

看護師、含む医療関係者の環境改善の署名

      (思い出しましたら追記します)




【経験体験者当事者】


難病(脊髄空洞症)

中途障がい当事者

ヤングケアラー

いじめ経験体験者

児童虐待経験者

養子縁組経験者

不登校経験体験者

差別経験体験者

詐欺被害者

ドメスティックバイオレンス被害者

ストーカー被害者

数々のハラスメント被害者

ネットワークビジネス被害者

職業差別経験体験者

学歴差別経験体験者

その他




早産未熟児、心疾患を持って生まれる。

ミルクを飲むと鼻から口から噴水のように吐き、泣かせる事で心臓に負担をかけさせないために、祖母、祖祖母の交代での抱っこ生活ののち半年検診で奇跡的に心臓の穴が塞がり半年検診では、3歳で手術と言われていたものがなくなる。


病弱な体と未熟児だったため

数々の疾患を体験

風邪をひきやすいために中耳炎になり

そのことにより難聴になるとの診断で

4歳でアデノイド切除。初めての手術であった。

幼稚園の時も高熱をよく出していた。



小学校入学

心臓のこともあり体育は基本見学。

卒業までは毎年年2回心電図検査を受ける。

この事もあり【いじめ】がはじまる

いじめの原因は、体調のことだけではなく、家族構成や親の風貌、など様々だった。

育ての親である祖母は戦争の学童疎開の引率中の事故により1種1級の頸損、脊損がありながら、わたしを含む孫2人を育てた。この事もいじめの原因だった。

小学校5.6年の担任の行動により

不登校になる



心機一転

中学校に入学するも、体力不足でおよそ二駅歩いての通学がしんどく、行けなくなる。また、【いじめ】も再開。

荒れていた年代でもあったので、周りには

ヤンキーと言われる不良や暴走族が沢山いた。なんとも先輩や同級生からも呼び出された。

このことにより、中学校校長先生はじめ、生徒指導の先生に、相談室ではない、保健室ではない現在の『フリールーム』を直談判にて設置

卒業前の進路指導の際、前代未聞の長室にて校長先生、進路指導、担任、父親、私

の5人にて実施。その際に家庭環境のこともあり、夜間高校希望を初めて伝えて

成績には問題がないためみんなに止められるが、夜間高校を受験、合格。



夜間高校に行きながら、

難病(ビュルガー病)持ちであった父の

保険代理業の後継者としての修行が始まる。

在学中、昼間の学校と校舎は共有していたため、夜間の授業が始まる時に昼間の学生の下校、クラブ終わりの話し声などがあり学習するにあたり支障をきたすため、

夜間高校校長室にて直談判し、

翌日には、学習中につき大声での会話等禁止の看板を設置してもらう。

途中18歳で妊娠、結婚、出産があったが

無事4年間で卒業。送辞と答辞を務める


卒業した年の春

実父が47歳で急死

19歳にて喪主、法定相続人、法定代理人になる


実父逝去により保険代理業廃業


介護者や保護者をしながら子育てをする

パートを始める



21歳

実父逝去より悪化していた、前夫による

DV、ストーカー及び祖母への虐待があり

離婚

一手に子ども、祖母、妹との大黒柱になり

朝晩仕事の掛け持ちをする



25歳

祖母が闘病の末に死去

2回目の喪主経験



26歳

7月20日朝、体を起こすこともできず

それでも、1人で近くの総合病院受診

ここで難病【多発性硬化症】であるとの

診断がおりる

翌日、別の大きな病院に転院し

本格的な検査をうけ

診断確定、そのまま入院

24時間ステロイドを点滴投与


様々な理由から本来なら2ヶ月の入院加療を要する所、2週間余りで退院し、

通院にてのちりょうに切り替える。


ここから

わたしの難病患者当事者と障がい当事者の

新たなステージが始まる




4年経過観察の受診治療の後

別の難病であったことが発覚

約1年間、大阪で受けてくれる専門病院を何箇所も行き

正式に【脊髄空洞症 キアリ奇形】との

診断がおりる。



31歳

大阪医科大学附属病院高槻

脳神経外科にて

大後頭圧減圧術をうける


26歳から車椅子生活だった私だが

31歳より車椅子生活を卒業したが

主に左側への後遺症やその他障がいは

残る。



小学生の頃より様々な病気や障がいのある同世代の人と触れ合って育っていたため

26歳で自身が難病や障がいをもっても

戸惑いはなかった。がその事による

差別、イジメ、無理解などがある事を

実感しまた経験体験したことにより

制度や周りの人への理解や周知などの活動をはじめる。

その時立ち上げたのが

ボランティア団体《Happy Go Lucky》である。


社会参加をしながら

就労に向けて様々なことを学び

難病に関する署名活動も継続してきた。

難病法の施行の際にも当事者として関係省庁に声を上げ続けてた。現在も継続中



就労活動をするも見事に落とされる日々を

経て、法改正などを待っておれず


再婚を機に東京に移住

2018年個人事業主として

新たなステージを創り出す。





現在上記にある

様々な経験体験からの法改正

並びに

新法設立


難病に対する理解、周知

障がいに対する理解、周知

私自身がモデルとなる事で開拓することで

開けるものがあるならと

現在、様々なジャンルにおいて奔走中


最近の職業の追加としては

【お助け屋】との名称を頂く。